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最寄駅近くのスーパーたち [生活]

徒歩圏内、しかも最寄り駅近くにスーパーマーケットが4件もある。

最近たまに野菜やら肉やらを買うし、そもそも食べ物を売っているのを見るのは
嫌いではないので、各店舗それなりに回ってみるのだが、やはり個性というか、
違いというのがある。

以下、簡単に特徴を並べてみる。


【スーパーD】
1階、2階、そして酒コーナーを含めると3階の一部も含み、売り場面積は最も広いかも。
また、プライベートブランドが充実しているので、同じものを安く買いたいときはよい。

ただ、鮮魚と精肉コーナーが割とさびしい。野菜、果物は充実しているが、お惣菜は
可もなく不可もなく。


【スーパーY】
全体的に精肉コーナーが安く、ロットを大きく売っているので、肉を買いたいときは重宝する。
売り場面積がそう広くない割りに、お惣菜は質、量ともに美味そうだ。また、酒コーナーの
ワインにはそれなりのこだわりを感じる。

鮮魚コーナーはDよりもよいが日によって差がある。野菜、果物はぼちぼち。


【スーパーO】
鮮魚コーナーが楽しい。付近は住宅街のはずなのに、一般家庭ではあまり出ないような
代物も平気で売っている。殻つきホヤとか、シマアジ、スズキ、アオリイカの丸々一匹とか。
アジやイワシなど、鮮魚コーナーの刺身も美味い。

その一方で、お惣菜はあまり見るべきものが無い。また、鮮魚コーナーの面白さに比べ、
精肉コーナーはあまりぱっとしない


【スーパーYZ】
売り場面積も狭く、全体的にこじんまりとしている。肉、魚、野菜など一通り揃ってはいるが、
どうも突出したものは見られない。どうやって他の3店と伍しているのか、今ひとつ見えない。


こうしてみると、スーパーもいろいろと違いがあるのだなと、当たり前のことを思った次第。
激戦区と言ってもいい地域で、各店どのような策で戦っているのか、もう少し継続的に
ウオッチしようと思う今日この頃。

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ギスギスさの一要因に関する仮説 [その他]

常に誰かが誰かを批判しあっているようなギスギスしさ。

そんな現代社会を窮屈に感じさせる一要因として、インターネットを中心に人々それぞれの自我が拡散したことによって、自我同士が触れ合ってしまう機会が増えたことがあるのではないか。要は、物理的にはともかく、常時満員電車にいるような精神状況に陥っているからではないかという仮説を漠然と持っている。

気分を害した事柄について、かつて「そんなの自分には関係ないね」で済まされたのが、現代ではそれが拡散した自我に触れる事柄であるゆえに「自分が傷ついた、権利が害された」と感じ過剰反応を起こしてしまう。また、その反応の連鎖が集団化して個々の自我の融解と集合的な攻撃性を帯びることになる。

その攻撃性の主観的な性質は、あくまで「自分が傷ついた、権利が侵害された」ことに対する正当防衛のようなものであり、かつ、しばしば集団であり匿名性も備えていることから、個々人の責任意識がはなはだ希薄となりがちだ。こうして、個人の攻撃性は正当化意識と集団性と匿名性の中に完全に顕現する。

いつ自分がその餌食になるかを思うと、この攻撃性を局外から見るのは、正直いたたまれない。もし自分が渦中にあって逃れるには、自分も「傷ついた、権利が侵害された」に回るしかなく選択肢はほぼ無い。こうして、攻撃性と選択肢が奪われる不愉快への恐れと委縮が、現代の窮屈さの一つの在り方となるのではないか。

もしこの仮説に幾分かの理があるのならば、窮屈さから逃れるには、自分の自我が拡散している事実をまず認め、自我を少しずつ収縮させていくとともに、自分にとって居心地のいい自我の範囲というものを手探りしていくことしかあるまい。

それはとどのつまり、個人の領域、すなわちプライヴァシーの現代的な再認識の過程といえるのかもしれない。そう、ギスギスの背景は、プライヴァシー概念とその活用の混乱にあるのではなかろうか。

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報道でよく見る「無罪推定」とは?狭義と広義のそれぞれの意味 [警察・刑事手続]

刑事事件の報道などでよく聞かれる「推定無罪」という言葉。

一般的な理解では、「何人も、刑事裁判で有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」という意味合いで使われている。確かに、その意味が間違っているわけでは全く無い。しかし、実際の推定無罪に関する扱いを見ていると、常識的な知見からは辻褄の合わない、よく分からないことが出てくるのではなかろうか。

例えば、被疑者が検挙され、犯行を自供している際に、「有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」のはおかしいのではないか、もう本人も認めているのだから、犯罪者として扱ってよいのではないのか。また、そもそも捜査段階である程度事実関係が明らかになっているのに、「無罪として推定される」というのはどういうことか、有罪と考えてよいのではないか。あるいは、「無罪として推定される」はずなのに、被疑者被告人はマスコミやネット上で叩かれておかしいと感じることもあろう。

ではいったい、「推定無罪」とはもともとどういう考えで、どのような目的や効果を期待されていて、それが当てはまる射程範囲はどこまでなのだろうか。それを理解するためには、「無罪推定」について、狭義と広義、二つに分けて考えることが役に立つと思う。そこで、それぞれの無罪推定の考え方について、ざっくり述べてみようと思う。

(なお、「無罪推定」と「推定無罪」と同じ意味。刑事訴訟法の議論では「無罪推定」を使うことが多いので、以下便宜的に「無罪推定」を使っていきます)

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