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ギスギスさの一要因に関する仮説 [その他]

常に誰かが誰かを批判しあっているようなギスギスしさ。

そんな現代社会を窮屈に感じさせる一要因として、インターネットを中心に人々それぞれの自我が拡散したことによって、自我同士が触れ合ってしまう機会が増えたことがあるのではないか。要は、物理的にはともかく、常時満員電車にいるような精神状況に陥っているからではないかという仮説を漠然と持っている。

気分を害した事柄について、かつて「そんなの自分には関係ないね」で済まされたのが、現代ではそれが拡散した自我に触れる事柄であるゆえに「自分が傷ついた、権利が害された」と感じ過剰反応を起こしてしまう。また、その反応の連鎖が集団化して個々の自我の融解と集合的な攻撃性を帯びることになる。

その攻撃性の主観的な性質は、あくまで「自分が傷ついた、権利が侵害された」ことに対する正当防衛のようなものであり、かつ、しばしば集団であり匿名性も備えていることから、個々人の責任意識がはなはだ希薄となりがちだ。こうして、個人の攻撃性は正当化意識と集団性と匿名性の中に完全に顕現する。

いつ自分がその餌食になるかを思うと、この攻撃性を局外から見るのは、正直いたたまれない。もし自分が渦中にあって逃れるには、自分も「傷ついた、権利が侵害された」に回るしかなく選択肢はほぼ無い。こうして、攻撃性と選択肢が奪われる不愉快への恐れと委縮が、現代の窮屈さの一つの在り方となるのではないか。

もしこの仮説に幾分かの理があるのならば、窮屈さから逃れるには、自分の自我が拡散している事実をまず認め、自我を少しずつ収縮させていくとともに、自分にとって居心地のいい自我の範囲というものを手探りしていくことしかあるまい。

それはとどのつまり、個人の領域、すなわちプライヴァシーの現代的な再認識の過程といえるのかもしれない。そう、ギスギスの背景は、プライヴァシー概念とその活用の混乱にあるのではなかろうか。

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平成から令和への個人的な願い~緩やかな統合へ~ [その他]

平成が終わった。

政治や経済、文化など、多くの人がそれぞれの視点で平成を振り返るだろう。多くの優れた論考が生まれるに違いない。そんな中、屋上屋を架すようだが、平成への思いを個人的に振り返り、令和へのささやかな願いをしたためてみたいと思う。

非常に単純化すれば、平成は、個人主義の名の下に、個々の自我が大いに拡散した時代だったと思う。あるいは、国家や会社や革命やイデオロギーといった大きな物語が力を失い、それらから解放された時代であると言ってもよかろう。

個々人は、状況の許す限り個人の自由を最大限謳歌しようとしたし、それを抑制するのではなく、尊重するのが当然と思われた。人と人との繋がりも、個人の感情がベースとなっていった。

それは、浅田彰の『逃走論』におけるスキゾ・キッズたちの世界と言えるかもしれない。

良いことは、危機に際した個人の共感の自然発生だろう。阪神大震災や東日本大震災、その他災害や悲惨な事件事故に対する人々の共感や被災者・被害者への支援行動は、インターネットやSNSを介したもので、マスメディアだけではない自然発生的なものだったし、そのような、社会の強靭さは記憶に新しい。

その裏返しとして、共感できないことや共感が異なるに対する人々の間の分断が甚だしいことが明らかになった。例えば政治的な意見や、放射性物質の被害で、同じ事実、政策でも自分の感情や立場によって、見え方や評価が異なり、意見が違う相互の間では、あたかも対話が不可能であるかのような言説が飛び交った。

そして、令和がはじまる。

もちろん、それがどんな時代になるかはわからない。ただ、自分含め 人々が幸せを感じる時代であってほしいとは切に願う。そのために必要となるのは、どんな時代の空気だろうか。

おそらくだが、令和には国民全体を覆うような大きな物語の復権はもはや無いだろうし、そのことに対する昭和のノスタルジーの声も、時を経るごとに小さくなるだろう。平成における個人の自由は悪くなかったし、様々な良いものも産んだ。

ただ、人々の生活はますます細分化、専門分化が進んでいる。その中で個人の自由を享受し、そして自由を行使して生きるには、目に触れることのない多くの人々の仕事とその複雑なネットワークの構造が必要不可欠だ。

例えば、僕らが24時間営業のコンビニで食う弁当に、一次産業から始めて、どれだけ多くの人の手が加わっているか。田んぼや畑、牧場、漁港、流通、加工、調理、盛り付けといった食材だけでなく、容器や、販売等、それぞれに実に多くの人出を経ていることを想像するだけでも、十分だろう。

それが損なわれるとするならば、個人の自我意識や人々の思考の分断による、他人およびネットワークへの敬意の喪失であると思う。

平成で強化された個人の自我、個人の自由を支えるものは、個人を越えた人々のネットワークであり、それを可能にしたソフト、ハードのインフラである。一方で、個人の自我の強調は、しばしば自尊意識に陥り、そのようなネットワークへの敬意、ないしはその前段階にある他者への敬意を損ねがちである。また、人々の思考の分断も、その傾向に拍車をかける。

ネットワークへの敬意の喪失はその弱体化に繋がり、ひいては個々人の生活水準を下げ、現在享受している個人の自我、自由が損なわれる。それを防ぐには、個人の自我が、必ずしも意見が合わないであろう他人を一応は尊重し、そして自分の外にあるネットワークへの敬意を保つことが必要になるはずだ。もちろんそれらは、個人の自由を圧殺するものであってはならない。

こうして、既存の生活水準や個人の自由を維持発展させるには、個人の自我や自由の強調だけではない、統合への意識が求められることになる。もちろん、この統合とは、国家や社会やイデオロギーといった他所から与えられた大きな物語に組み込まれることではない。個々人ないしはその隣人からネットワークへと段階的に派生していくものとなるべきだ。

あえて言うなら、緩やかな統合とでも言うべきか。

何も、全員がいついかなる場面でお手々つないで仲よくすべきという話ではない。重要なのは、個人の自我に社会性を持たせることであり、個人のプライヴァシーの領域とそれぞれでの思考や表現にグラデーションを持たせることではないかと思う。

例えば、どんなに差別的、侮蔑的な意見であっても、それが個人の内心にとどまっていたり、もしくは自分の部屋の中など、個人の領域内でのみ表現されるのであれば、それは全面的に尊重されなければならない。一方、公共の場で他者を傷つけるような表現をすれば、場合によっては侮辱罪や名誉毀損罪など、刑事責任をすら負いかねない。

そして、SNSをはじめインターネット空間や、数人での社交場の集まりなどは、完全な個人の領域と完全な公共の場所との間に位置しているはずで、それぞれに適した表現の程度についてグラデーションをつけるべきだと思うのである。すなわち、公共に近い領域では、相手や不特定の他人に配慮した表現が求められるだろうし、個人の領域ではその制限が外れる。そうすることで、分断を誘発しかねない個々人の自我と、社会のネットワークの維持を両立に導かれるのではないかと漠然と思うのである。

令和が始まった今、そのようなことをだらだらと考えるスタート地点に立ったのだと言えよう。

社会が一直線に成長、成熟し、人々が時を経るごとに幸せになっていくと考えるほど、楽観的ではない。しかし、それぞれの時代は、それぞれかけがえのない価値を築いたと思う。例えば、昭和は国民の力を結集し、生活を大いに豊かにした。平成は、大きな物語から個々人を解放し、自我と自由を謳歌させてくれた。

令和が、緩やかな統合の時代となり、新たなかけがえのない価値をもって振返られることを、一国民として願う次第なんである。

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私刑と正義について [その他]

いじめや事件の加害者とされる人や、その家族等に対する、インターネット上などの私刑。
この手の〚正義感〛が個人的にどうにもやりきれない。

いじめられて自殺に追い込まれた方や被害者を悼む気持ちは分かる。
いじめをした人や加害者を憎む気持ちも分かる。
今後いじめや事件が起こらないようにと願う気持ちも分かる。
そういった思いを他人と共有したい気持ちだって、理解できる。

ただね、そこから、「正義の味方たる俺が悪い加害者とその関係者を罰さなきゃ!」という
行動が、どうしても導き出せないんだよな。

しかもネット上で。しかも匿名で。
しかも、「死ね」や「クズ」とか言った、正義の味方にふさわしくない言動で。

ちょっと突飛な言い方だけど、他人をいじめている人で、自分を悪の権化とみなしている人は
ほとんどいなくて、きっと正義の味方だと自己認識している場合が多いと思うんだよ。

だから、自分が正義の立場にいると思ったときは危ない。
その思いに基づく行動には、自分が、新たな加害者となっている可能性がある。
だから、言動にブレーキをかけた方がよいと自分としては思っている。

そして、いじめなどをを憎むんであれば、メディアで取り上げられた事件に憤りを感じて知らない
誰かを罰するよりも、自分が身の周りの誰かをいじめていないかどうかを反省したり、
自分の周りで苛められている人にどうにか手を差し伸べてあげたりする方が、
よっぽど救いが多いんじゃないかと思うわけで。

他人を断罪して正義に酔うのは、酒に酔うのと同じくらい迷惑なことだってある。

どうしても知らない誰かを罰したいのであれば、正々堂々と名前を名乗って責任を取れる
ようにするのが、正義の味方のせめてもの矜恃ではないかと、やはり個人的には思って
しまうのである。

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動物の生死、雑感 [その他]

動物の命を大切にすること、一般的にはもちろん、個人的な心情としても、
非常に好ましいとは思う。

ただ、
 ・ペット用の動物の命を丁寧に扱うこと
 ・人間の食料用として育成され屠殺される動物のこと
 ・捕鯨や象牙など野生の動物に対する扱い
の違いを整合的に理解することは、なかなか難しいと感じる。

ペット用の動物が殺処分されると聞くことは痛ましいし、それらを
残酷に扱うことに対しては憤りに近い気持ちになる。

一方ドナドナではないが、家畜の屠殺にはかわいそうだなと思う反面、
やはり肉は美味い。フォアグラだって食べたい。

捕鯨反対をヒステリックに唱える団体には、辟易してしまう。

おそらく、このような問題意識を持つのは、いわゆる先進国の都市住民
であると思う。その特徴は、日常生活と動物の生死との間の距離の遠さと、
死や残酷さに対する耐性の低さである。

生命の大切さを強調され、生死の現場から遠ざけられてきた多くの
先進国の都市住民にとって、死はあまりに異質である。それに直面
させられることによって、ちょっとした精神的恐慌をきたすのでは
ないか。

たぶん、良くも悪くも生死に近い紛争地域や貧困地域では、動物への
扱いが社会的倫理的な問題になることはあまりなかろう。

むろん、動物が残酷に扱われることから生じる嫌悪感を否定することは
できないし、すべきではないと思う。しかし、そのような基準から見て、
人間が残酷な行為を歴史的かつ文化的に続けてきたし、これからもそうで
あることは、間違いない。人間の歴史としてそれに敬意を払わないのも、
またおかしい。

結局、動物に対する個人の惻隠の情と、社会的・文化的な動物への取扱い
への一応の敬意と尊重、そして他者への寛容などをないまぜにしたような、
生死に関するスタンスが必要なのだと思う。

まあ、今のところよくわからんけど。歯切れが悪いが、しょうがない。

議論になった事件や問題について一つ一つ考え、議論し、基準めいた
コンセンサスを作るとともに、それらの妥当性を常に検証する必要があるのだろう。

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ささやかな思い出、壱岐 [その他]

金が無いし根が出不精なので旅行とかほとんどしないが、
長崎県、壱岐島は印象に残っている。

当時の職場の研修の一環で、壱岐で自治体の各種政策について、一週間、
泊りがけで学んでくるという名目。25歳の頃。

なぜか夜は毎晩飲み会で、そこで出た壱岐焼酎が、やたら美味かった。

なんでも、壱岐は日本における麦焼酎発祥の地らしく、琉球の泡盛や薩摩の芋焼酎、
フランスのコニャックのような国際的な産地指定を受けているらしい。

とはいえ、二階堂やいいちこに比べると、麦焼酎として余りにも知名度が無いのは、
いささか寂しく思わないでもない。

一週間のある一日は、朝三時起きで、定置網漁船に乗せてもらった。

幸い船酔いなどは無く、定置網には様々な魚がかかっていて、中でも印象的だったのは、
水揚げされたばかりの小鯵の唐揚げを貪り食わせてもらったこと。鯵、美味し。

ビールか何かがあれば最高だったが、朝だけに贅沢は言えない。

また、壱岐近辺はアオリイカやモンゴウイカの好漁場らしく、とある漁師さんと話した際、

「へえ、関東や東北ではスルメイカを刺身で食うんですか?あれは火を通したり
加工したりして食べるものだと思ってました」

などと、ささやかにdisられたが、モンゴウイカのむっちりとした肉を思うと、
それはそれで、ある意味納得できるところでもある。

15年以上過ぎ、結局覚えているのは、酒と魚の話だけなのはご愛嬌。

壱岐焼酎のグラスを傾けたとき、金と時間があれば、再訪するのも悪くないなと
ふと思った今日この頃なのでした。

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