So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
その他 ブログトップ
前の5件 | -

雑感、古代ローマとキリスト教、民衆の過剰適応 [その他]

職場でふと、「ローマ人の物語」(塩野七生)の話になり、
話題はキリスト教に及んだ。

紀元前後に生まれたとされるキリスト教は、
ローマの衰退、すなわち、ローマ世界の民の生活水準の低下と
反比例するかのように繁栄し、最後はローマの国教となる。

いわば、ローマ世界の乗っ取り。

多神教のローマ思想と相容れない一神教のキリスト教に対し、
塩野七生の点はひたすら辛い。

「邪悪で堕落した」ローマ国家の義務を果たさず、
教会という排他的な共同体を形成するキリスト教徒は、
ローマ社会のフリーライダーと言ってもよいだろう。

なぜなら、キリスト教徒ではあっても、ローマ法や、
ローマ軍団による安全保障、そして、街道などの交通網等の
いわゆる公共インフラによる利益を享受していたのだから。

しかし一方、当時のローマの民の気持ちを虚心に想像すると、
「神」に帰依したくなる気持ちも、わからないでもない。

3世紀以降のローマは、緩やかな衰退過程に入る。

約300年ローマ世界を守ってきた防衛戦が浸食され、
蛮族の侵入がじわりじわりと始まる時期。

何の罪もなく土地や作物を蹂躙された民は、

「なぜ?」

という思いとともに痛切な無力感、絶望を抱いたに相違ない。

キリスト教は、曲がりなりにも、
その「なぜ?」に対する答えを与えたのでは無かろうか。

蛮族の侵入やローマの衰退を解決しようと考え、
そしてそれを実行に移すには、問題はあまりにも複雑で、
錯綜しており、民の想像力や行動力を越えている。

そんな中、

「悔い改めよ」「神の国は近い」「信ずるものは永遠の命を」

というスローガンの下、悲惨な現状を、「神」と「信仰」で整理して、
受容しようとしたに違いない。

要するに、キリスト教の受容は、民の現実適応の一手段だと、
僕は思う。

自分がローマ末期の民であれば、やはりキリストを信じたろう。

悲劇は、蛮族の侵入を直接の原因とするローマ社会の劣化に、
キリスト教は、そして「信仰」は、あまりにも無力だったこと。

無力どころではなく、生活水準をまがりなりにも支えてきた、
従来の共同体への協力を、「信仰」のために拒否することで、
ローマ社会の解体を促進してしまったこと。

ローマ世界が滅んだ後、欧州では、「神の国」中世が始まる。
ここで中世の是非について論じるつもりはない。

ただ、人々の生活水準がローマ時代に戻るのに経過した時間、
西ローマ滅亡後、概ね1000年。

神の気まぐれといっても、余りに長い時間ではないか。

さて、高度な生活水準と、目前の生活への無力感、絶望。

3世紀のローマの民の気持ちに、そこはかとなく、
共感出来る気がするのはなぜだろう。

キリストの復活、案外近かったりして。

nice!(0)  コメント(0) 

『悪魔を憐れむ歌』 [その他]

本日発売の第二巻および第一巻の増刷分から、マンガ、『悪魔を憐れむ歌』の執筆協力をさせていただくことになりました。

ただ殺すのみならず、関節を折り曲げ、遺体を折りたたんだ状態にしてしまう連続猟奇殺人事件「箱折犯」。その真相を追う刑事と、なぜか隠蔽を試みる警察組織、そしてその被疑者であろう医師を巡るサスペンス作品です。

稠密な絵柄や、日常に潜む狂気を感じさせる人物たちの台詞、そして箱折犯を軸とした物語の展開も興味深いですが、個人的には、一巻巻末「せめてマンガの中だけだは、感じる痛みを謳歌できますように」という作者のメッセージに強く魅かれています。

例によって巻末に名前を記載していただいているようなので、もし手に取った際にはそっと微笑んでくださいませ。

【amazon】
https://www.amazon.co.jp/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%82%92%E6%86%90%E3%82%8C%E3%82%80%E6%AD%8C-1-%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%A2%B6%E6%9C%AC%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AB/dp/4107719731
nice!(0)  コメント(0) 

問題意識の素描 [その他]

社会的分業の進化と生活のアウトソーシング化によって、
人は、自らの生活能力を減退させつつある。

通常は、そのことに気づくことすらないだろうし、
その流れをとどめることは誰にもできないだろう。

なぜなら、それは便利で自由な生活だからだ。

便利で自由な生活のどこが悪いのだ。
面倒なこと、いやなことは誰だってしたくない。
分業とアウトソーシングが進めば、その費用がかかる。
みんな、生産と消費を拡大し、経済成長のマッチポンプが
成立する。ある意味、いいことづくめだ。

こうして、人は主観的な万能感に浸りつつ、
客観的にはどんどん無能力化していることに、
気づこうとはしないし、誰も教えようとはしない。

それどころか、経済は需要に従い、主観的な万能感を助長する
コンテンツを手を変え品を変え提供し続ける。
しかも最近は、年少者が大きな市場となっている。
年少時代から、消費社会の中で育ち十分な万能感を身につけた
「保育器の中の大人」(岸田秀)が、こうして大量に栽培される。

そしてある日突然自分の無能力に気づき、驚愕する。

なぜ、私の意思が阻害されるのだ。

万能感にとって自分の意思がかなわないということは、
自分に対する不当な侵害以外の何者でもない。

敵は、他者なのだ。

そのとき人は、自由、もしくは考えられる美名の下に、
自分に不当な侵害を与えていると考えられる者を、
情け容赦なく排除しようとするだろう。

「神は自己だ。僕は絶対だ。」(夏目漱石「行人」)

こんな言葉は、明治よりも平成にこそふさわしい気がする。
夏目漱石は、坂の上の雲を追っていた時代に、いったい、
何を見ていたのだろうなあ。

やれやれ。

nice!(0)  コメント(0) 

いわゆる「保毛尾田」問題雑感 [その他]

かつてバラエティ番組の人気キャラクターだった「保毛尾田保毛男(ほもおだ・ほもお)」が、男性同性愛者を嘲笑の対象にしたとの批判を受けた問題。リアルタイムで番組を見て大いに笑っていた世代である自分としては、窮屈な時代になったと思う反面、当時も悩んだり苦しんだりした人がいたに違いないとも思い、複雑な気持ちになりました。

ただ、番組で傷ついた人々が声を発し、その声に対し表現側が公的な説明をするという仕組みができることは、率直に良いことだと思います。

現在でもそれなりの影響力を持っているテレビや新聞、雑誌その他のメディアでは目に見えない多くの表現規制があるはずです。その一方、例えば福島第一原発事故を巡るいわゆる放射能デマのように、産業や生活への風評被害を煽り、困惑した人々に対して、多くのメディアは誠実な対応を怠ってきたとは言えないと思います。

仮に傷ついた人がいたとして、声が大きい影響力ある意見には理由も説明も無く屈して表現の旗を降ろし、無視できる声に対してはいかに彼らが傷ついたとしても無視し続けるという態度には、好感が持てません。

大切なのは、表現をした人、表現に傷ついた人が、表現の意図や表現で生じる弊害などについてきちんと意見を交わし、問題点を整理することでしょう。その上で、問題となった表現そのものを差し止めるのか、表現を残した上で謝罪や賠償を通じて傷ついた権利の回復を図るのか、表現そのものも残すのか、きめ細かい対応を取るべきなのだと思います。

少し周りを見回せば、自分にとって不愉快な表現はメディアに満ち満ちています。しかし、それが個人的な感情に過ぎないのか、社会的な問題の一つなのかは、なかなか判断が難しいところです。また、その表現にどのように対応すべきかも、千差万別だと思います。その意味では、唯一の正しい正解があるとは限らないはずです。

だから、緊急性が高い場合を除き、一つ一つのケースで議論を重ね、かつそれをできるだけ公開することによって、少しずつコンセンサスとルールを作っていくことが求められるのでしょう。ともあれ、かつて笑っていた「保毛尾田保毛男」から真面目なことを考えさせられるとは、当時を振り返ると隔世の感があります。。。

【参考記事】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171013-00000113-sph-ent
nice!(0)  コメント(0) 

事実は一つ。では真実は? [その他]

一方から見れば、「違法な天下りの推進」だし、
もう片方から見れば、「面倒見のよさ」。

一方から見れば、「破廉恥な出会い喫茶の常連」だし、
もう片方から見れば「真摯な貧困調査」。

一方から見れば、「岩盤規制の温床」だし、
もう片方から見れば「行政への介入を守った」。

面白いのは、いずれも事実は同じだということ。
見る視点が異なるから、評価は180度異なる。

誰もが、自分ないしは自分の意見に同調する視点が唯一のものだと、
考えがちなのではないか。

とはいえ、自分と異なる視点の人も、この世にはたくさんいて、
別に彼らが悪の権化というわけではない。

大事なのは、自分がどの視点にいるのか自覚しておくことと、
その視点が唯一絶対のものではないと認識しておくことだと思う。

互いに自分の視点をずらしてみれば、異なる視点同士で、
意見が一致するところを見出すことも不可能ではないはずだ。

もっとずるく立ち回るのならば、それらをわきまえた上で、
相手や目的に応じ使い分けるのが よろしかろう。

ミステリーでは、真実は一つといわれるが、どうもそれには懐疑的だ。
実際は、事実は一つで、真実は視点の数だけあるのではないか?

そんな藪の中めいたことを考えた今日この頃なのです。

前の5件 | - その他 ブログトップ